都ばなし 4
祇園祭
約千二百年前、京都に都が移されました。
人口が急激に増え、今でいう都市整備が追いつかず、水が原因で夏になると疫病が流行ます。古代の人は、疫病は無念の死を遂げた怨霊の仕業と考えました。祇園祭は八坂神社に穂木(先のとがった常緑樹)を立て怨霊を依り付かせ、神泉苑の池に流したのが始まりです。山鋒に変わるのは室町時代のことで、鋒の真木に榊を付け、山に松をのせるのは穂木の名残です。
江戸時代になると町衆が力を付け、富と力を誇示する美術工芸の祭りとなります。
今でも小路に入れば、秘蔵の美術品を通りから見えるように飾り付ける塀風祭を続ける旧家も多く、お囃子を聞きながら見物するのも宵山の楽しみです。
豆腐
約二千年前に中国で発明された豆腐は、我国には奈良時代に遣唐使により伝えられ、寺院の精進料理に用いられたそうです。
畑の肉と呼ばれる大豆を原料とする豆腐はタンパク質が多く、大豆をひきつぶしてから造りますので消化吸収も良く、肉食を絶ったお坊さんにとっては重要な食物であったことは言うまでもありません。
室町時代になると、門前より出て庶民の食べ物となり、町に豆腐売りも現れ、茶屋では田楽にして供されます。
江戸時代の旅行ガイドブックである花洛名所図絵に「丹波屋の湯豆腐は、いにしえよりの名物にして旅人かならずこれを賞味し…」と当時すでに名物になっていた南禅寺門前の湯豆腐のことが記されています。
送り火
京都では、お盆の間家に帰っていた御精霊さんを、十六日の夜の五山の送り火で送り祖霊の冥福を祈ります。
大文字の送り火は、室町時代に始まったと云われていますが、庶民の行事で記録に乏しく詳しいことはよくわかりません。
俗説では、東山如ヵ岳の山麓にあった浄土寺が炎上した時、御本尊の阿弥陀如来が山に飛び移り、放った光をなぞって火を焚いたのが始まりで、それを空海が「大」に書き改め、飢餓や疫病の退散を祈ったということです。
水やお酒の入った丸い盆に送り火を写して飲むと中風にならないとか、燃え残りを戸口に吊るすと疫病除け、盗難除けになるとも云われています。
顔見せ
阿国は出雲大社の巫女で、大社修理の勧進興行を北野神社や四条河原で行ったのが歌舞伎の始まりと云われ、信長や秀吉にも窮愛されたそうです。男装で官能的に演じたため「浮かれ戯れる。異様な身なりをする」の意味の「傾く」が転訛し歌舞伎となりました。
江戸時代の京都には七軒の芝居小屋がありましたが、現在は四条大橋畔に南座を残すのみとなりました。
11月末、その南座に勘亭流で役者名を書いた顔見興行のまねき看板があります。
江戸時代の座と役者との契約期間は一年で、顔見世とはこれから一年出演する役者のお披露目興行だったのです。
東西の大看板が集う南座の顔見世は、京の師走の風物詩で底冷えを予感させます。
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アクセス
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